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「レポゼッション・メン」見たよ


いまから20年後の世界。ユニオン社が製造する人工臓器が普及し、高額なローンの支払いと引き換えに、人類はかつてなく長寿を得ていた。しかし、ローンの返済が不可能になると、ユニオン社の「レポゼッション・メン」と呼ばれる人間が、強制的に人工臓器を回収しにくるルールとなっている。レミー(ジュード・ロウ)はトップの回収率を誇る、ユニオン社NO.1のレポゼッション・メン。しかしある出来事によって、ユニオン社の最高額商品である人工心臓を埋め込まれてしまう。それは誰かが仕組んだことなのか、ユニオン社の陰謀なのか――?

レポゼッション・メン 映画作品情報 - シネマカフェ

MOVIX宇都宮にて。
基本的にこういう痛い系の絵の多い作品は苦手なんですが、そういうシーンを観る辛さよりも面白くて目が離せなくないとても魅力的な作品でした。人工臓器が発達した近未来を舞台にした物語。


他者と関係を築いていくときに、相手の考えや立場をよく知ることはとても重要だとわたしは思います。少しずつその人に関する情報を蓄積していくことで、その人が自分にとって信頼するに足る人なのかどうかということを判断するための情報も貯められていってその人に対する評価を決めていくのです。
まれに「一目ぼれ」とか「生理的に合わない」といった感じで直観的に好き嫌いが決定してしまうケースもあるのですが、基本的には相手の事を何も知らずに評価をくだすということはありえないことなわけです。


ところが、たしかに本来は相手のことをちゃんと見て知るべきなんでしょうが、毎日毎日たくさんの人と会ってそのたくさんの関係の中で生活をしていると、いつの間にかそのひとりひとりの性格や考え方に注目した上でその人を理解しようとは思わなくなっていることに気付くことがあるのです。例えば、コンビニのレジでお釣りを間違えたことが何度かあるあのアルバイトの子はやる気がないんだろうなとか、仕事中にいつもくだらないことを質問してくるあの人はたぶんどうしようもなく使えない人だとか、とにかく自分の目から見える一面的な情報を元にしてその人を何かしらの分類に振り分けて取り扱おうとし始めるのです。そうやって分類してしまえばあとはそのカテゴリごとの評価をその人の評価に置き換えてしまえばよい、つまり他者をざっくりとした分類にカテゴライズして理解することでひとりひとりの人となりを理解するためのプロセスを大幅にカット出来るわけなのですが、この手法は大変効率的な反面、これに慣れてしまうと自分以外の他者に対して極端に興味がわかなくなってきます。それは個人個人をしっかりと見ればあるはずのさまざまな特徴が、○○な人という分類からは判断できないし、そしてそのことが個人が元来持ち合わせている欠点や魅力をすべて切り捨てていることになるわけです。


そんなふうに他者を一個人としては見ずにいることのメリットは、最初に書いたとおり他者との関係を構築することが楽になることなのですが、でもそうやって楽をして築いた関係には大きな問題が残ります。それは相手に対する敬意をもてないということです
具体的にどういうことかというと個人を個人として見ないということは、相手を自分と同等かそれ以上の人間として見ていないということなんですよ。つまりその人に対して何かひどい発言や行為をしてもそれについては一切良心が痛まないし、それはまるでペットや人形に対する態度のように一方的で傲慢で相手を思いやろうという気持ちがひとかけらもないのです。


レミーの仕事は借金を返せなくなった相手の体内から臓器を回収する、つまり借金のかたに命を奪い取ることなのですが、それこそ臓器を回収する相手ひとりひとりとちゃんと向き合うようなことをしていたら到底出来る仕事ではないのです。相手のことを「借りたお金を返せないダメな奴」と心のどこかで見下したり、そこまでではなくても自分の人生とは全く無縁のどうでもいい人くらい無関心でなければ、とても出来ることではないのです。
自らも人工臓器の保有者になって初めて彼自身の行為や考えの残酷さに気づいたレミーの姿を見てわたしが感じたのは、この他者への無関心というのはわたし自身の思考にもかなり根付いたものであるということです。相手の立場になって考えるというごく普通のことでさえもできなくなってしまうことがどれだけ気持ち悪いことなのかということを感じ、そしてそういった考えが自分の中にはっきりと存在することに強い恐怖と不快感をおぼえたのです。
不快感というか、自分がそういうことを平気で考えられるという事実を客観的に見せられたようですごく怖かったんです...。


わたし自身、最近の自分はどこか傲慢で横柄な考えを持ち始めているように感じていたので、そんなの自分の嫌な部分を直視させられた私はすぐにでもそんな自分の至らない部分を少しでも良くしていこうと感じたのでした。映画を観ていてすごく気に入らない奴が出てきたらそれは自分の嫌な部分を投影しているんだよ、ということを言われたことがあるのですが、まさにそのとおりだなと思いながら鑑賞しました。


以下、ネタバレありで続きます。


この作品のラストで、レミーは物語の途中から夢を見ていただけであることが明かされます。
このことは作品の途中で何度か挿入される新しく開発された脳への人口臓器機能の紹介から予測されるものでしたが、これを見て「人間にとっての幸せとはなんだろう」かとしみじみ考え込んでしまいました。
例えば、現実世界におけるレミーは植物人間となっていて人工臓器として動く脳が見せる幸せな夢を見ながらその肉体が朽ちるまで過ごすわけです。だから彼にとっては死ぬまでが幸せな日々であり、彼本人にとっては何ら不満のない死までの時間が約束されているのです。
ところが現実にはレミーは脳機能をすべて人工物に代替してもらっている植物人間なわけですから、彼はこの世界で自らの意思で死を選ぶことすらできないわけです。


果たしてどちらが幸せなのか?


「そりゃもう前者の幸せな夢を見て死ぬまでハッピーな方でしょう」と思うわけですが、でもそれもどこか割り切れなくて結局自らの意思で死ぬことすら選べない状況が果たして本当に幸せと言えるのかと考えると前者がいいとはなかなか言えないのです。どうも割り切れない。
たしかにレミー本人は自分が夢の中にいるのか現実を生きているのかは分からないだろうし、そもそも夢がどうとか現実がどうとかそんなことを言い始めると、この世界だって本当に存在するのかどうかを証明するすべなんて誰にもないわけで、誰もが自らが認識しているその現実を生きることしかできないことは明らかなのです。


自分が満足すればそれで幸せだと常々思っていたのですが、でもこんなふうに人工的な幸せを享受しているだけだとすればわたしはとてもそのことに耐えられないなと思うんですよね。
そう考えるとわたしにとっての幸せというのはわたし個人の満足だけでは満たされなくて、他者からも承認されるところまでいかなければ幸せだとは思えないということになるのですが、それもまた何だか違うよなあ...と思ってしまい、正直自分でも何が何だかわからなくなってくるのです。


何だか生きてるのが嫌になっちゃうなー。。。


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