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「JAPAN IN A DAY」見たよ


特別じゃない日なんて、1日もない。例えば、広げた新聞の一番上に、3月11日という日付を見つけて一瞬手が止まる。これから先も、そうした瞬間を迎えるのかもしれない。あれから1年後の2012年3月11日。人は、どんな24時間を送ったのか。人々がその日撮影した様々なシーンをつなげストーリーとなったドキュメンタリー映画。

JAPAN IN A DAY 映画作品情報 - シネマカフェ

TOHOシネマズ宇都宮で観てきました。


2012年3月11日に市井の人たちによって撮られたビデオを編集でまとめたというドキュメンタリー映画でしたが、さほど期待していたわけではなかったものの思ったよりも合わない作品でして観終えてぐったりしてしまいました。

こういう一見立派なテーマをかかげた作品を好きではないと評するのは少し気後れするのですが、一部すごく惹かれた部分があることは認めますがでもこの作品を他の商用作品と同列に扱ってロードショー公開したことに違和感をおぼえています。この作品に出てくる特定の個人や映像を否定したいわけではないのでそこは誤解されたくないのですが、事実の提示だけで主張のない作品って苦手です...。

お金を払って観たいと思うほどの作品ではなかったです。

# 以下、わりと否定的な意見が続くので、読みたくない方は読まないでください


この作品の意図というか言いたいことはなんとなくわかるんですよ。


震災から一年が経った今年の3月11日。

その日、日本中、世界中で撮られた映像を無造作にかきあつめることで、あの異常な一日から一年経った世界がどうだったのかを残しておきたいということなんだろうなということ。そして、だからこそあんなふうにほぼ相関のないさまざまなかたちの日常を集めたんだろうということも想像できるのです。

仮にその想像があっていたとして、そうだとすればそのやりたかったこと自体は分からないわけではないし、単なる映像記録として残すだけであればまったく否定するつもりはありません。「震災から一年経ったときの空気を後世に伝える」という視点で観ればこういったこともすごく大事なことだと思います。


でもあえて商用映画として出すのであれば、そこには言いたいことや伝えたいことが見えて欲しいと思うのですが、この作品からはそういった明確な意見や主張が見えてこなくてイライラしてしまったんです。市井の人たちが撮ったという映像の取捨選択した基準やその順番にまったく意味を見出せなかったのです。あまりにとりとめがなさすぎるのです。

繰り返しになりますが、この作品に出てくる特定の個人や映像を否定したいわけではないです。作中の映像のどれもが、その人や関わりのある人にとって大事な映像だということはわかっているし、そういったことを拒絶したいという意図は1nmもありません。

ただ、個々の映像がどういう映像であったとしてもそれらをつなげてひとつの作品にしたのであればそこには文脈というものが生まれてしかるべきだと思うんですよ。でもそれがないし、そしてそんなあるべきものが無いことにいら立ってしまったのです。


観ながら思ったのは、この作品は意識的に言いたいこととか伝えたいことが出てこないようにしたんじゃないかということでした。

個々の映像からはそこに映っている人や映されている人それぞれの思いが伝わってくるところもあったのですが、映像が並べられて積み重ねられたことからはなにも感じられませんでした。映像はあくまで羅列されているだけであって、そこにはそのように並べた意図も選んだ意図もあまり感じられませんでした。

作品はあくまで「とにかくたくさんの情報を詰め込んでおくこと」に終始しているように感じられたし、そしてあえて「見ている側が好きに受け止めればいい」という投げっぱなしジャーマンであるように感じたのです。


通常、他者になにかを伝えるためには伝えたいことを強調してそうでないことと差別化しなければいけません。
そうせずに単に事実を提示してそこから各自が好きに見て感じてくれというのは、平等に扱っているということではなくただ手抜きをしただけだと思います。すべてのエピソードを平等に扱うというとなんとなく耳触りがよいのですが、結局は言いたいことを主張することをさぼっただけだとしか思えません。


たしかにひとそれぞれ、惹かれるポイントや気になるところは違うのかも知れません。

でもだからと言ってまったく優劣をつけずに、たとえばさりげない日常を描いたエピソードと大事な人の死を悼むエピソードを同列に扱っていることがわたしはすごく嫌でした。勝手な言い草ですが、やはりそこは事態の重さを加味して重みづけをして欲しかったと思うし、そこに作り手の意図を明確に示して欲しかったのです。


すべてを平等に扱うということ、つまり伝えたい対象をあえてしぼらないことはこの作品をすべての人に向けたメッセージにしようとしたということかも知れませんが、でも伝えたいターゲットが明確ではない叫びは逆に誰にも向けられていないことと同義なのではないかとも思うんですよね。
言い換えれば、作品全体で伝えたいことがなにもないというのは結局なにも言ってないことと同じなんじゃないかと思うのです。


もちろん、わたしが感じられなかっただけで実際には作品全体をとおして明確な主張があったのかも知れません。
もしそうであったとすればわたしは自分の不感症っぷりを恥じたいと思います。


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